さびしがり屋の少女−美咲(みさき) 僕―大石晴彦(おおいしはるひこ)はいつものように駅の改札を抜け、階段を降りて道路に出た。それから橋を渡ってホテル街にさしかかる。この道は女性にとっては危ない道でもあるのだが、男である僕にとってはさほど気にならない。 「痛っ。何するんだ?」 僕がとっさにしかめ面をして右の方を向いたとき、つかんできた相手の口が開いた。 「あたしの、相手になってくれませんか?」 これが、その少女との最初の出会いだったのである。 このホテル街に通じる道では、何人もの女性が、売春目的で通行人の男性を待っているというのが日常の光景として見られている。いつもの僕なら、まぁ、そこまではっきりとつかまれることがなかったせいか、足早に過ぎ去っていくのであるが、今日に限ってそんなことはなかった。なにしろ、思いきり腕をつかまれてしまってはしかたがない。そんなわけで、僕はこの少女に付き合うことになってしまった。 「とりあえず、どこか入ろうよ」 腕をつかまれたまま少女に引っ張られてきたところは、なんとラブホテルだった。 「おいおい、ここは…?」 「ふふふ、わかってるんでしょ?」 少女は心なしかニヤニヤしながら、慣れた手つきで部屋のボタンを押す。ラブホテルというのは、入り口にすべての部屋の写真があって、その写真にはボタンがついている。そして、空いている部屋のボタンだけが赤く点灯しているのである。 「うわっ、広いっ!」 「ふふっ、いいでしょ?」 その部屋は20畳くらいの洋室で、入り口ドアの右側にトイレとガラス張りのお風呂、その奥にはダブルベットがある。そして左側にはソファーがあって、さらにベランダ付きというもので、いかにも高級そうな部屋であった。 「…ありがとう」 しばらくの沈黙ののち、少女がやっと口を開いた。 「えっ?」 「ありがとう、一緒に来てくれて」 「どうしたの?」 僕がそうたずねると、少女は小さな声で話し始めた。 「あたし、家出してきちゃったの。もう何もかもが嫌になって…」 少女の名は美咲(みさき)といった。年は言わなかったが、あどけない顔立ちから見て、16,7くらいだろうか。なんとなく初々しく、そして少し大人っぽく見える化粧が、いわゆる最近の娘、という感じを消していた。 「あたしには、大好きなお兄ちゃんがいるの。でも、大好きなんだけどさ、ずっと遠いところにいるんだ」 「どうして?」 「あたしなんかがいくら頑張っても、お兄ちゃんのように、優秀にはなれないんだ。それが…」 美咲は口をつぐんだ。再び沈黙の時が流れる。 「それがもう嫌なの! あたしはあたしらしく生きていきたいの! だから家出なんかしたの!」 そう言って美咲は泣き崩れた。僕は彼女の肩を静かに抱くことしかできなかった。 彼女の話を聞いていて、この問題の根底は家庭にあると考えた。教育熱心な両親と、それに応えるかのように優秀な兄。それに比べてちょっとわがままでおてんばな娘−美咲。 「お兄ちゃん、今、アメリカにいるの」 ずっと泣いていた美咲が、やっと口を開いた。 「アメリカ…」 「お兄ちゃん、もうあたしの雲の上の人になっちゃったの。だから、近づくことすらできない」 不意に美咲は立ち上がり、服を脱ぎ始めた。 「そんなつもりは…」 僕はそういいかけたが、美咲は、右の人差し指を僕の口に当て、そのあとの言葉を封じた。 「いいから見てて」 美咲はそういうと、ゆっくりとしたスピードですべての服を脱ぎ捨て、僕の前に直立した。僕はふっと、目をそらした。 「よく見て、お兄ちゃん!」 その言葉にはっとした僕は、美咲の体をじっと見据えた。 (冷たい…。そうか、心が冷たくなると、身体も冷たくなるのかな…) そう感じた僕は、決心して美咲に言った。 「今日だけ、美咲のお兄ちゃんになってあげる」 「ほんと? ありがとう!」 美咲の顔には、笑顔が戻っていた。 それから僕は、こんな話をした。 「人間ってさ、感情を持って当たり前なんだよ。それを我慢することも大切なことかもしれないけど、感情のままに生きるってことね、すっごく大切なことなんだよ。無理しちゃったら、絶対どこかに異常が出る」 「うん」 「だから無理しちゃだめ。無理しちゃったら、人間が人間でなくなっちゃう」 「うん」 美咲は、じっと僕の顔を見た。 「美咲は、これから無理しないで生きていけるよね。今までずっと無理してきたんだからさ」 そう言って僕は、美咲をぎゅっと抱きしめた。そして軽くキスを交わした。 「今日はお話を聞いてくれてありがとう」 美咲が再び口を開いた。 「ホントはね、ずっとあなたのことを待ってたの」 「えっ?」 「あの橋のたもとでずっと、待ってたの。だから、一緒に来てくれて、お話を聞いてくれて、ホントにありがとう」 僕は、あの橋を足早に歩いて過ぎ去っていくだけだから、なにもわからなかったんだ。ただ売春目的で立っている人がいるとしか思わなかったのだ。そう思うと、不意に涙がこぼれた。そして、その涙を隠すように、美咲の体を、もう一度ぎゅっと抱きしめた。 ふと気がつくと朝になっていた。いつのまにか眠ってしまったらしい。部屋の中にはすでに美咲の姿はなく、テーブルの上に手紙と、この部屋の料金の8000円がきれいに並べられて置いてあった。 「お兄ちゃんへ (美咲…) 僕は心の中で彼女の名を叫んだ。そして一人さびしく、ラブホテルを出たのである。陽は高く昇っていて、かすかに春のにおいが感じられる、そんな日だった。 それからというもの、美咲は一向に姿を見せなかった。無事に家に帰ったのだろうか。それとも、またどこかの街で話し相手を探しつづけているのだろうか。今となってはまったくわからない。 (美咲…、苦しいのは美咲だけじゃないんだよ。誰でも、苦しいんだよ。だから、無理なんかしなくてもいいんだよ) 僕は、心の中でそう叫びながら、今日もホテル街を足早に過ぎ去っていくのであった。 (終わり) |